脊柱管狭窄症、 京都の名医達から「手術しても保証できない」と言われ続け、たどり着いた「セルゲル法」

2026-08-17

スタジアムや商業施設、高速道路、造船所など、日本を代表するさまざま建造物の溶接工事を手がけてこられ小貝孝司さん。85歳のいまも毎朝4時半に起きて家庭菜園に立つ現役の会長です。そんな小貝さんが長く悩まされてきたのが、「腰部脊柱管狭窄症」による腰の痛みでした。

脊柱管狭窄症の始まりと、長い保存治療の日々

小貝さん腰の不調が見つかったのは、まったく別の症状がきっかけでした。胸の痛みを心臓の病気かと心配して京都の病院を受診したところ、「逆流性食道炎」と診断され、その検査の流れで「腰部脊柱管狭窄症」と診断されました。70代半ばの頃だったといいます。

「痛くてね、だんだんひどくなって、寝返りも打てないぐらいになりました。日中は仕事に夢中になれば痛みを忘れられても、夜になって横になると寝返りが打てず、睡眠不足に悩まされる日々が続きました」

京都では名医といわれる整形外科を3件ほど受診したが、3名の医師はみな「外科手術をしても保証はできない」という言葉を口にした。それでも数年にわたり手術をすすめられたものの、小貝さんは断り続けました。その理由をこう振り返ります。

「手術をしても保証できないと言われたら、挑戦できませんよ。今までありとあらゆる保存治療もしてきました。お薬をどれだけ飲んでも、腰なんて治りませんでした」

大きな手術への不安と、家族への思い

実は小貝さんが手術に踏み切れなかった背景には、自身の大きな手術経験がありました。16年前、人工透析が必要になっていた奥様のドナーとして、自らの腎臓を提供していたのです。腎臓を提供した後、奥様はしばらくの間、元気を取り戻しましたが、コロナ禍の時期に感染し、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

自身もその後、胃がんや胆管炎を患い、胃がんでは内視鏡を用いた手術を2回受けています。「入院すると体力も落ちて、日常生活を取り戻すのに時間がかかるでしょう。腎臓の手術もしているので、また大きな外科手術をしようという気持ちにはなれませんでした」。腰さえ良くなればという思いを抱えながら自分に合う治療法をインターネットで探し続けました。

手術しないセルゲル法を選んだ決め手とは

ご自分の会社の前で

たどり着いたのが、ILC国際腰痛クリニックのセルゲル法でした。大阪院を受診した小貝さんは、「先生に安心感がありました。それが決め手です。対応してくれた看護師さんもいい人ばかりでした」と振り返る。

実は、似たような腰痛治療を行うクリニックも知っており、どちらを受診しようか迷ったそうです。「決め手は、腰の根本にアプローチしてもらえること、そして1日で治療して自宅に帰れることでした」。局所麻酔で体への負担が少ない点も、大きな手術を避けたい小貝さんにとって安心材料となりました。「この治療がすべての腰痛を消し去るものではない」という説明も、腑に落ちるものがあったといいます。

術後すぐの改善と、その後の腰痛ケアプログラム

治療当日は、午前中にMRIとレントゲンの検査を受け、治療後は1時間ほど個室で休んで夕方には帰宅できました。クリニックまでの送迎だけはお孫さんが協力してくれ、検査から治療まで一人で完結したそうです。

「最初に麻酔を打ってもらいましたが、声をかけながら打ってくれて、まったく痛くなかったです。いつの間に終わったの?と分からなかったぐらい。冷たいものが入っていったな、と感じたぐらいでした」

治療後の経過について「本当に良くなりびっくりしました。看護師さんから『大丈夫ですか?』と連絡をもらえたことも安心につながりました。少しだけ痺れが残ったため、大阪院内のリハビリにも通い、理学療法士から体の使い方について丁寧な説明を受けました。」と小貝さん。

治療後には関連ケア施設で5泊6日の腰痛ケアプログラムにも参加した。

「そこで感じたのは、自分の力で治すと思って来た人ほど、症状の改善が大きいということ。治療をしたんだから、なんでこんなことをするの、という人もいる。でも、もう頑張ろうと思って来た人のほうが、改善して帰っていくんですよ。不思議なものですね、心の問題ですかね。夢中になれば忘れられるというのもあるから、どこか仕事にも通じるものがありますね」と、仕事一筋に生きてきた小貝さんらしい腰痛との向き合い方で乗り越えてきたようだ。

28歳での起業、そして仕事に打ち込んだ人生

難関の国際溶接技術者の資格

小貝さんの前向きな姿勢は、若い頃からの歩みに根ざしている。ご両親が早くに離婚し、祖母のもとで育った。「常に何でも自分でしなさい、人に頼るなと教わりました」。決して裕福ではない時代を過ごしながら、その教えを胸に刻みながら生きてきたという。

28歳のとき、所帯を持って生活が苦しくなり、「このままではいけない」と一人で溶接の会社を立ち上げ、仕事に明け暮れる日々を過ごした。一つの現場を終えると夜中にまた次の現場へ移動と、ありとあらゆる仕事を請け負い、全国を走り回ったといいます。その努力の甲斐あって、日本有数の溶接専門の企業となり、自ら難関の国際溶接技術者、溶接管理技術者の資格を取得。

「自分で絵を描けるのが溶接の面白さ。どうつなげば美しく、強度も出るか、独創性が試される仕事なんです」。一時は国際協力機構(JICA)など通じて海外での技術協力なども考えたほどでした。

家庭菜園で体を動かすのがいちばんのリハビリ

治療から数カ月以上が経った現在、「本業のほうはほとんど息子や孫に任せ、毎朝4時半に起き、河川敷近くの家庭菜園に通っています。キュウリ、オクラ、トマト、京都の万願寺唐辛子、何でも作ってみています。このまえは大成功したスイカをアライグマに全部やられてしまいました。」と話しながら、ふと気づいたように「今は腰痛なんて全く問題なくなりましたよ。家に帰ったらこういう運動をしてくださいね、と言われるけれど、私にはやる必要がないんです。これだけ動いていますから」と笑う。

畑まで車で15分、水やりだけで1時間。朝から昼までほとんど動きっぱなしだという。生活の中でしっかり体を動かすことが、何よりのリハビリになっているようだ。

鉄にのめりこみ今は土と語り合う日々

若いころから溶接という仕事にのめりこみ、火花を散らしながら鉄と向き合ってきた。そして今は、穏やかな気持ちで毎朝、家庭菜園の土と向き合っている。「そういえば、鉄ももともとは土の中にあったものですよね。鉄から土に先祖返りですかね」そう問いかけると、小貝さんは少し考えてから、いたずらっぽく笑った。「そう言われればそうですね。面白いもんです」。硬い鉄を自在につないできた手は、いま柔らかな土を耕し、季節ごとの実りを育てている。

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